2011-02-03 (木) 00:00:00
これは、「Encyclopedia of Systems Biology」というSpringerの企画で書いたエントリーの日本語版です。折角作ったのでこちらに掲載しました。
細胞周期は、その制御因子が適切な時期に適切な分だけ発現される事によって実現される。人工的に遺伝子を過剰に発現し、それが細胞周期に与える影響を解析する事によって、細胞周期の制御機構を探る実験がしばしば行なわれている。これを多数の遺伝子に対してシステマティックに行なう事により、冗長性などのために(遺伝子破壊等の)ロスオブファンクションのスクリーニングでは取得できなかった、細胞周期の制御に関わる新たな因子を同定する事が可能である。この他、「過剰発現の限界」をシステマティックに測定する事により、細胞周期の「ロバストネス」などの知識を得ようとする新しいタイプの研究も始まっている。
遺伝子の過剰発現は、遺伝子のプロモーター置換やコピー数増加などによって行なわれる。このような遺伝子操作が容易に適応できるモデル生物において、これまでシステマティックな過剰発現による細胞周期の解析が行なわれている。
強力な転写誘導が可能なプロモーターの制御下にcDNAやゲノム断片を組み込んだライブラリーを構築し、このライブラリーが導入された細胞や個体を細胞周期異常の表現型でスクリーニングする事で、過剰発現により細胞周期に異常を引き起こす遺伝子の単離が行なわれてきた。
ポストゲノムの時代になり、ゲノムにコードされたすべての蛋白質コーディング領域を組み込んだライブラリーが構築され、真に網羅的なゲノムワイドスクリーニングが行なわれるに至っている(現在のところ、このような解析が適応されているのは出芽酵母のみである)。
この他、過剰発現の上限をシステマティックに測定する事で、細胞周期のロバストネスを評価したり、統合的な数理モデルの評価と改良を行うという研究アプロモーチもある。
以下に、個別のモデル生物で行なわれた、システマティックな遺伝子の過剰発現による細胞周期の解析の具体例を紹介する。
遺伝子の過剰発現によって引き起こされる表現型により、細胞周期に関わる遺伝子を同定しようとした研究としては、出芽酵母において最もエクステンシブな解析がなされている(文献1ー3)。これら3つの研究では、すべてGAL1プロモーターという、培地条件をかえることで強力な発現誘導が可能なプロモーターを用い、フローサイトメトリー解析によって細胞周期の異常を検出している。これら3つの研究で、約250程度の「過剰発現により細胞周期に異常をきたす遺伝子」が得られている。
このような解析により、サイクリン遺伝子など細胞周期の制御で中心的な役割を果たす遺伝子が単離できている事から、この中には、細胞周期制御に直接関わる遺伝子が含まれていると期待できる。一方で、(これはすべての遺伝学的手法においてさけがたい問題ではあるが)細胞周期制御に直接関わるとは考えにくい(機能が知られている)遺伝子も多数取得されており、スクリーニングに引き続く詳細な解析が必要とされる。
細胞周期制御の詳細な分子メカニズムが明らかになるにつれて、細胞周期の統合的な数理モデルが構築されている(文献4)。パラメーター変動に対するロバストネスを用いて、このようなモデルの確からしさを評価できる(文献5)。遺伝子の過剰発現の限界を測ることができれば、遺伝子発現というパラメータの変動に対する細胞のロバストネスを測ることができる。
このような目的でつくられた実験として「遺伝子綱引き法」がある。遺伝子綱引き法では、プロモーター置換のかわりに、ネイティブなプロモーターを含む遺伝子をプラスミドに組み込み、そのプラスミドを栄養要求性の選択圧を用いて上昇させる。この時、標的の遺伝子の過剰発現が細胞周期の異常を引き起こす(細胞増殖を停止させる)場合には、そのプラスミドの細胞あたりのコピー数は過剰発現の限界よりも低くなければならない。この実験法を利用して、約30の出芽酵母の細胞周期制御に遺伝子の過剰発現の限界が測定されている。このようにして得られたデータは、細胞周期の「ロバストネス」の発揮の原理の解明や、統合的な数理モデルを指標とした評価と改良に用いられている(文献6ならびに7)。
分裂酵母では、nmt1プロモーターを用いる事により人工的に遺伝子を過剰発現することができる。nmt1プロモーターによる遺伝子発現誘導は、出芽酵母のGAL1プロモーター(数十分)に比べて、大幅に遅い(18時間程度)が、分裂酵母では細胞周期の異常は、細胞の異常な伸長(cdc表現型)によって顕微鏡的に容易に識別できるという利点がある。これまでにcDNAライブラリーを用いたCDC表現型によるスクリーニングが行なわれ、21個の遺伝子が得られている(文献8)。技術的には分裂酵母においても出芽酵母と同様な真の網羅的な過剰発現解析は適応可能である。
高等真核生物(多細胞生物)では、遺伝子操作が難しく、細胞周期のディフェクトをどのようにとらえるかが問題となるため、システマティックな過剰発現解析の例は少ない。ショウジョウバエでは、組織特異的に遺伝子を過剰発現するためのシステム(GAL4システム)があり、これを用いた遺伝子の過剰発現系統が作られている。目の発生時期特異的に遺伝子を過剰発現させ、目の大きさが小さくなるという表現型を指標に細胞増殖と分裂に関わる遺伝子の単離が行なわれ、2300の系統のスクリーニングにより、32の候補遺伝子が得られている(文献9)。このスクリーニングでは、全遺伝子の10%以下がスクリーニングされているにすぎない。
遺伝子の過剰発現を用いたスクリーニングの利点は、遺伝子破壊によって得られない細胞周期関連遺伝子が得られる可能性がある事であろう。これは、例えば出芽酵母のサイクリン遺伝子のように遺伝子ファミリーを形成していて遺伝子破壊に対して顕著な表現型を示さないような遺伝子に対しては特に有効である。
しかし、遺伝子破壊が「特定の遺伝子の機能を完全に消失させる」という統一的結果を導きだす事が可能であるのに対して、遺伝子の過剰発現実験は、用いる方法(どのプロモーターと置換するか、コピー数を上昇させるか、プラスミドを用いて過剰発現を行なうか、ゲノムにインテグレートさせるか)によって、発現量や発現時期の条件が異なる。実際に出芽酵母での、上記3つの研究で得られた遺伝子セットの間には、驚くほどオーバーラップが少ない(文献3)。これは、統一的な実験結果が得られやすい網羅的な遺伝子破壊実験に比べ、大規模な過剰発現解析における実験条件の統一化の難しさや疑陰性の排除の難しさを表している。
最終的にすべての遺伝子に対して統一的な実験結果を得るためには、「細胞周期のどの時期に、どれだけ過剰に発現させた時に、どのような異常を引き起こすのか」を知る必要がある。
このためには、例えば、遺伝子発現量を精密にコントロールできるプロモーターを用いて、マイクロ流路等で培養した細胞の、時系列的な顕微鏡観察を行なう実験をさまざまな遺伝子に対してシステマティックに行なう、といった実験が必要となるだろう。このような実験は、出芽酵母などの遺伝子操作が高度に発達したモデル生物では、すでに適応可能である(例えば、文献10)。高等真核生物では、まずは培養細胞を用いてこのような技術を開発していく必要があるだろう。