科学とそうでないものを分けるもの

私はかれこれ15年くらい、いわゆる科学というものをやる場にいます。そうすると、日常生活にあまりにも偽物の「科学的根拠」が沢山転がっていて、一般の人たちがそれを科学と信じてだまされているシーンに出くわします。テレビ番組で紹介される、科学的実験のほとんどに、非常に重要な科学の要素が抜け落ちているのです。

私たち科学を学んだもの達の一つの大きな役割は、それらのエセ科学にイチャモンをつけて、人をだまそうとする奴らを懲らしめる(?)事だと思うこともあります。

実験1:しおれていたひまわりに水をやったら元気になった。

結論1:ひまわりには水が必要である。

この結論は正しいでしょうか?

科学的には、この観察からこの結論を導き出してはなりません。もちろん、ほとんどの人は常識的に(あるいは経験的に)植物に水が必要であることを知っています。この結論はただしそうです。しかし、これが極端な例だとこうなります。

実験2:しおれていたひまわりに、20度に暖めた水をやったら元気になった。

結論2:ひまわりには20度の水が必要である。

これ何かおかしくないですか?

これらの何がおかしいのでしょうか?「対照」がないのです。

子供の頃から理科のテストに必ず書かされる、一つの単語「対照実験」。当時私はこの意味がわからず、とにかく「この実験はなんのために必要か?」と書かれていると、暗記していた「対照実験にするため」という言葉を書いて、正解をもらっていました。その本当の意味がわかったのは、研究の世界に入ってからかもしれません。

イチャモンといわれるかもしれませんが、実験1だけで考えれば、このひまわりは水をやらなくても元気になったかもしれないのです。実験2まで限定すれば、結論が論外なのはすぐにわかるとおもいます。水の温度は15度でも25度でもよかったかもしれません(もちろん水をやらなくても元気になったかもしれません)。対照(英語ではControlと呼ばれる)がなければ、科学になり得ないのです。

実験3:しおれていたひまわりに水をやったら元気になった。対照実験として、それと同じ状態のひまわりに水をやらなかったら、元気にならなかった。

結論3:ひまわりには水が必要である。

対照実験がついたこの場合、結論は正しいでしょうか?

今度は対照がつきました。しかしこれでも科学的になっていないのです。例えば「ひまわりというのは、実はなにもしなくてもある確率で元気になったりしおれたりするもので、水をやったものが偶然元気になる状態にあっただけ」かもしれません。

これもほとんどイチャモンに聞こえますが、これをさけるために「統計」というものがあるのです。つまり、沢山のひまわりで同じ実験をやって、水と元気になることの間にどれくらいの関係性があるかを調べる必要があるのです。

実験4:10本のしおれていたひまわりに水をやったら、すべて元気になった。それと同じ状態の10本のひまわりに水をやらなかった場合、どれも元気にならなかった。

結論4:ひまわりには水が必要である。

ここまでやって初めて科学っぽくなりました。

面倒くさい世界です。でもここまでしないと「科学的な根拠がある」とはいえません。科学とそうでないものを分けるものは「対照」と「統計」。エセ科学にだまされてはいけません。

 

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2008-04-05 (土) 00:00:00